2013年3月23日、マレーシアのナジブ・ラザク首相はヒンドゥー権利行動隊(HINDRAF)と会談した。
現在マレーシアでは第13回総選挙に向けて議会の解散が控えている。この会談は、おそらくインド系コミュニティからのサポートを強化することを目的と、Malaysiakiniというニュースサイトが報じた。
HINDRAFは非政府組織の連合で、地域社会からインド系コミュニティが疎外されていることを強調するために、2007年11月に首都のクアラルンプールで3万人以上のインド人を動員し、デモを行った。
その後、前政権であるアブドラ政権の下、内務大臣のサイードハミド·アルバーによってHINDRAFは2008年10月に非合法化された。その際に、マレーシア政府は、公共の秩序、安全保障と国の主権と同様に放置した場合、マレーシアにいる、マレー系、インド系、中華系などの人種の調和を乱すとしてHINDRAFの違法化について説明した。
現在、HINDRAFのチーフ、WaythamoorthyはHINDRAFの五カ年計画の青写真についての協議のために3月22日にナジブ・ラザク首相からの招待を受けている。
「HINDRAFのリーダーたちの間での議論の結果、招待を受け入れることを決めた。」 とHINDRAF顧問N GanesanはMalaysiakiniに語った。
HINDRAFは、以前インド系の貧しい人々を支援するために、その青写真を強調する反対同盟Pakatan Rakyat(pakatanは連合、rakyatは人とか人民とか国民とかの意味)の指導者と会談していたが、交渉は行き詰まった。
マニフェストにHINDRAFの要求のいくつかを追加したものの、野党指導者アンワル·イブラヒムは、HINDRAFの青写真を全面的に支持することに消極的に思えたそうだ。
Malaysiakiniとの最近のインタビューで、「Waythamoorthyは連立与党(UNMO)がPakatan Rakyat(アンワル氏がいるとこ)に比べると、その協力への道のりは長いものになる」と、選挙協定の可能性を一蹴した。しかし、彼は「首相がHINDRAFの要求を満たす必要があり、Barisan Nasional(国民戦線)にHINDRAFの考える青写真について提案する」と述べていた。
ナジブ・ラザク首相、その功績
ナジブ氏は2009年に就任して以来インド人コミュニティとの融和のために努力してきた。
また、イスラムの国、マレーシアの首相。政治家という立場から東南アジアとそのイスラム社会のために貢献してきた。
フィリピンの南方、ミンダナオ島で1970年から30年間、キリスト教徒が多数を占めるフィリピンから独立を果たそうとモロ・イスラム自由戦線は戦いを繰り広げていた。フィリピン国軍は掃討作戦を繰り広げ、解放戦線は高架鉄道を爆破し、フィリピンは今よりもずっとテロと紛争、そして誘拐事件の脅威に晒されていた。
(モロというのは以前のスペイン人によって呼ばれたイスラム教徒の総称)
この歴史的背景は1450年のスールー王国まで遡る。
2001年、ナジブ氏はマレーシアの首相として双方の間を取り持ち、双方の勢力は和平に至った。
イスラム自由戦線は自治権を得て、もはや独立は求めていない。
この時ナジブ氏は、“The agreement will ensure that the Bangsamoro people will enjoy the dividends of peace, which they rightly deserve,In turn, they should respect their fellow Filipinos of Christian faith, as moderation is the true Islamic way.”となんかかっこいいことを言っている。
東南アジアにはその国の多数派の宗教とは異なるマイノリティの宗教が独立を求める構図が多い。多くはその起源は欧米の植民地以前にある。
元パタニ王国で仏教国タイの中にあるマレーシアとの国境沿いの地域でもテロが起きている。タイのシナワトラ首相はクアラルンプールを訪問したときに、マレーシアにこの紛争問題の和平交渉の際に仲介をお願いしている。マレーシアはこの和平交渉をアレンジするとされている。
この先は選挙があるので、ナジブ氏が首相を続けるかどうかはわからないが、ナジブ氏の東南アジアの安定への貢献に私は期待している。
マレーシアの民族と歴史
中世、たぶん日本が朱印船貿易とかやってたころ、今のマレーシアの各地にスルタン(イスラム地域で言う首長というところだろうか?)の王国があり、モンスーン貿易で栄えていた。インドや中国から船が往来するため、昔から結構他民族な様相だった。今でもこのころのジョホール王国などは王国として、マレーシアのジョホール州として存在し、マレーシア連邦を形成している。
イギリスの植民地支配
マレーシアのクアラルンプール国際空港に着陸する飛行機からは広大なジャングルが見える。どんどん高度が下がるうちにそれは広大なゴムの木の森だということがわかる。世界史で習っていたプランテーションがそこにあり、「これでは経済が偏っても仕方ないな」と思わせるくらいの規模である。
この時、イギリスはインドから人を沢山連れてきた。主に彼らは炭鉱や鉱業などで働く。マレーシア北部のイポーなどは鉱山の町だった。また中華系は商業を従事し、マレー人は主に農場で働いていたため、その作物を取引するにあたり、華僑の人々が雇われた。
このころにマレーシアは更に多文化な地域となる。
マレーシアの独立
マレーシアはイギリスからマラヤ連邦として独立する。そしてマレー人と経済的に豊かな中華系の人々の経済格差から双方の対立が目立ち始めた。
そのためマレーシアでは経済の「affirmative action」として、そして華僑やインド系の立場からは差別的な政策として見られるブミプトラ政策が始まる。
やがて1964年の7月21日にマレー人と華僑は衝突し、死傷するものも出た。そして後の初代シンガポール首相で「マレーシア人のためのマレーシア」を訴えてブミプトラに反対したリー氏とプミプトラ政策(マレー人優遇政策)を推進していた当時の首相であるアブドゥル・ラーマン首相が公の場に現れ事態を収拾する。ちなみにラーマン氏は「その協力への道のりは長いものになる」とHINDRAFの代表に言われていたUNMOの政治家である。
この民族対立の収拾は絶望的になり、1965年、ラーマン氏は「忠誠しない州政府とは関係を断ち切る」としてシンガポールをマレーシア連邦から追放する。余談だが、シンガポールの独立を高校の先生は「日本からある日東京が独立してしまったようなもの」と教えていたが、それは真実とはかけ離れている。
その後、日本でも有名なマハティール首相の時代になる。マハティール氏は医者から政治家に転身し、医者時代は総合病院を辞職、開業医になり貧困層の診療に取り組んだ。そのため貧困や貧富の問題には敏感なのではないかと私は推測している。彼はラーマン氏の時代に「ラーマン氏はマレー人の生活向上に対して意欲的ではない」と批判している。また中華系とマレー人の格差を問題視していた。
私にもブミプトラ政策によって影響を受けている友人は多い。ブミプトラ政策ではマレー人が優先的に大学に入れるため、中華系の友人は台湾の大学に行っていたりする。また言語面でもマレー語のみが公用語なので、マレーシア出身の人同士ではインド系と中華系の人がマレー語で会話する場面もある。そのきっかけとして日本人の私が間に入っていたりもする。
またブミプトラ自体が中華系とマレー系の対立の結果生み出されたものという側面があるので、タミル語を話すインド系マレーシア人は蚊帳の外のような状態である。そしてインド系の住民はマレーシア政府から省みられることは少なかった。
このような状態がHINDRAFを生み出し、また民族対立の過去からマレーシア政府は彼らを違法な存在とした。HINDRAFとマレーシアにはこんな背景がある。
今マレーシアは民族間の関係という面において少しずつではあるが、進展が期待できるような感じがある。全てのマレーシア国民が互いの文化を尊重し、マレーシアを考え、仲良く平和に暮らせる未来が来ることを期待しよう。
マレーシア村落社会とブミプトラ政策[PR]
現在マレーシアでは第13回総選挙に向けて議会の解散が控えている。この会談は、おそらくインド系コミュニティからのサポートを強化することを目的と、Malaysiakiniというニュースサイトが報じた。
HINDRAFは非政府組織の連合で、地域社会からインド系コミュニティが疎外されていることを強調するために、2007年11月に首都のクアラルンプールで3万人以上のインド人を動員し、デモを行った。
その後、前政権であるアブドラ政権の下、内務大臣のサイードハミド·アルバーによってHINDRAFは2008年10月に非合法化された。その際に、マレーシア政府は、公共の秩序、安全保障と国の主権と同様に放置した場合、マレーシアにいる、マレー系、インド系、中華系などの人種の調和を乱すとしてHINDRAFの違法化について説明した。
現在、HINDRAFのチーフ、WaythamoorthyはHINDRAFの五カ年計画の青写真についての協議のために3月22日にナジブ・ラザク首相からの招待を受けている。
「HINDRAFのリーダーたちの間での議論の結果、招待を受け入れることを決めた。」 とHINDRAF顧問N GanesanはMalaysiakiniに語った。
HINDRAFは、以前インド系の貧しい人々を支援するために、その青写真を強調する反対同盟Pakatan Rakyat(pakatanは連合、rakyatは人とか人民とか国民とかの意味)の指導者と会談していたが、交渉は行き詰まった。
マニフェストにHINDRAFの要求のいくつかを追加したものの、野党指導者アンワル·イブラヒムは、HINDRAFの青写真を全面的に支持することに消極的に思えたそうだ。
Malaysiakiniとの最近のインタビューで、「Waythamoorthyは連立与党(UNMO)がPakatan Rakyat(アンワル氏がいるとこ)に比べると、その協力への道のりは長いものになる」と、選挙協定の可能性を一蹴した。しかし、彼は「首相がHINDRAFの要求を満たす必要があり、Barisan Nasional(国民戦線)にHINDRAFの考える青写真について提案する」と述べていた。
ナジブ・ラザク首相、その功績
ナジブ氏は2009年に就任して以来インド人コミュニティとの融和のために努力してきた。
また、イスラムの国、マレーシアの首相。政治家という立場から東南アジアとそのイスラム社会のために貢献してきた。
フィリピンの南方、ミンダナオ島で1970年から30年間、キリスト教徒が多数を占めるフィリピンから独立を果たそうとモロ・イスラム自由戦線は戦いを繰り広げていた。フィリピン国軍は掃討作戦を繰り広げ、解放戦線は高架鉄道を爆破し、フィリピンは今よりもずっとテロと紛争、そして誘拐事件の脅威に晒されていた。
(モロというのは以前のスペイン人によって呼ばれたイスラム教徒の総称)
この歴史的背景は1450年のスールー王国まで遡る。
2001年、ナジブ氏はマレーシアの首相として双方の間を取り持ち、双方の勢力は和平に至った。
イスラム自由戦線は自治権を得て、もはや独立は求めていない。
この時ナジブ氏は、“The agreement will ensure that the Bangsamoro people will enjoy the dividends of peace, which they rightly deserve,In turn, they should respect their fellow Filipinos of Christian faith, as moderation is the true Islamic way.”となんかかっこいいことを言っている。
東南アジアにはその国の多数派の宗教とは異なるマイノリティの宗教が独立を求める構図が多い。多くはその起源は欧米の植民地以前にある。
元パタニ王国で仏教国タイの中にあるマレーシアとの国境沿いの地域でもテロが起きている。タイのシナワトラ首相はクアラルンプールを訪問したときに、マレーシアにこの紛争問題の和平交渉の際に仲介をお願いしている。マレーシアはこの和平交渉をアレンジするとされている。
この先は選挙があるので、ナジブ氏が首相を続けるかどうかはわからないが、ナジブ氏の東南アジアの安定への貢献に私は期待している。
マレーシアの民族と歴史
中世、たぶん日本が朱印船貿易とかやってたころ、今のマレーシアの各地にスルタン(イスラム地域で言う首長というところだろうか?)の王国があり、モンスーン貿易で栄えていた。インドや中国から船が往来するため、昔から結構他民族な様相だった。今でもこのころのジョホール王国などは王国として、マレーシアのジョホール州として存在し、マレーシア連邦を形成している。
イギリスの植民地支配
マレーシアのクアラルンプール国際空港に着陸する飛行機からは広大なジャングルが見える。どんどん高度が下がるうちにそれは広大なゴムの木の森だということがわかる。世界史で習っていたプランテーションがそこにあり、「これでは経済が偏っても仕方ないな」と思わせるくらいの規模である。
この時、イギリスはインドから人を沢山連れてきた。主に彼らは炭鉱や鉱業などで働く。マレーシア北部のイポーなどは鉱山の町だった。また中華系は商業を従事し、マレー人は主に農場で働いていたため、その作物を取引するにあたり、華僑の人々が雇われた。
このころにマレーシアは更に多文化な地域となる。
マレーシアの独立
マレーシアはイギリスからマラヤ連邦として独立する。そしてマレー人と経済的に豊かな中華系の人々の経済格差から双方の対立が目立ち始めた。
そのためマレーシアでは経済の「affirmative action」として、そして華僑やインド系の立場からは差別的な政策として見られるブミプトラ政策が始まる。
やがて1964年の7月21日にマレー人と華僑は衝突し、死傷するものも出た。そして後の初代シンガポール首相で「マレーシア人のためのマレーシア」を訴えてブミプトラに反対したリー氏とプミプトラ政策(マレー人優遇政策)を推進していた当時の首相であるアブドゥル・ラーマン首相が公の場に現れ事態を収拾する。ちなみにラーマン氏は「その協力への道のりは長いものになる」とHINDRAFの代表に言われていたUNMOの政治家である。
この民族対立の収拾は絶望的になり、1965年、ラーマン氏は「忠誠しない州政府とは関係を断ち切る」としてシンガポールをマレーシア連邦から追放する。余談だが、シンガポールの独立を高校の先生は「日本からある日東京が独立してしまったようなもの」と教えていたが、それは真実とはかけ離れている。
その後、日本でも有名なマハティール首相の時代になる。マハティール氏は医者から政治家に転身し、医者時代は総合病院を辞職、開業医になり貧困層の診療に取り組んだ。そのため貧困や貧富の問題には敏感なのではないかと私は推測している。彼はラーマン氏の時代に「ラーマン氏はマレー人の生活向上に対して意欲的ではない」と批判している。また中華系とマレー人の格差を問題視していた。
私にもブミプトラ政策によって影響を受けている友人は多い。ブミプトラ政策ではマレー人が優先的に大学に入れるため、中華系の友人は台湾の大学に行っていたりする。また言語面でもマレー語のみが公用語なので、マレーシア出身の人同士ではインド系と中華系の人がマレー語で会話する場面もある。そのきっかけとして日本人の私が間に入っていたりもする。
またブミプトラ自体が中華系とマレー系の対立の結果生み出されたものという側面があるので、タミル語を話すインド系マレーシア人は蚊帳の外のような状態である。そしてインド系の住民はマレーシア政府から省みられることは少なかった。
このような状態がHINDRAFを生み出し、また民族対立の過去からマレーシア政府は彼らを違法な存在とした。HINDRAFとマレーシアにはこんな背景がある。
今マレーシアは民族間の関係という面において少しずつではあるが、進展が期待できるような感じがある。全てのマレーシア国民が互いの文化を尊重し、マレーシアを考え、仲良く平和に暮らせる未来が来ることを期待しよう。
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マハティール政権下のマレーシア―「イスラーム先進国」をめざした22年[PR]
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